劇評ライブラリとは

劇団野らぼうは2024年に、作品をご観劇いただいた方から任意で劇評を募っていました。
このページは、そんな劇評の内容に関してまとめたもので、解析や要約にAIを使用しています。
良いものも厳しいものも含んだたくさんの劇評から、恣意的に判断されない相対的な劇団の形態を提示する試みとして、初めて取り組んだアーカイブ活動です。
結果として、当初の想定の甘さから劇評そのものが全然集まらないという不甲斐ない結果に終わってしまい、なかなかに初歩的なところでつまづいてしまいました。
ともあれ、体裁そのものは可能性を含んだものであると思っていますし、アーカイブとしては今後ブラッシュアップしながら形成していけたらと思っています。
今回は、読みの甘さも同時にパッキングされたアーカイブとして、ここに公開いたします。

アーカイブ活動に関しては以下の記事にまとめています。
劇評ライブラリ2024_劇団活動のアーカイブに関して|劇団野らぼう|note

技術背景 作成:深沢豊(モノガタ情報技術)

作成にもAIを使用しました。まずは斜めさんからTalk to the City (TttC)の情報をもらい、ローカルで実行。
出来上がったサンプルの結果をなるほど、と眺めつつ最初はこちらでやろうと思ったのですが、TttCはやや古いコードとなり動かすのが大変だったのと、実際やっていることはシンプルだったので、コード自体もゼロベースからつくった方がよかろうと思い、方向転換しました。

実際の作成の手順を説明します。最初にチャットAIとなるClaude3.7のチャットで仕様策定。Talk to the City (TttC)の例を引き合いに出しつつ、大まかな仕様を固めました。次にその仕様を元にclineにてコードを作成。こちらもAPIはClaude3.7を使用しています。できた結果を調整し、マニュアルの作成もAIに依頼しました。
ソースコードはGitHubにアップしました。結果として2025年の初頭らしい技術の組み合わせになっています。

参考:

Talk to the City (TttC) scatter
※使用しているソースコードはTalk to the City (TttC) のコードとは異なります。

劇評ライブラリ

全体のまとめ

劇団野らぼうの「新装版 内側の時間」は、テント芝居の形式を活かした独特の演出と優れたアンサンブルが高く評価される一方、作品のコンセプトや価値観の表現に対する批判も見られる。観客は日常と非日常の境界を行き来する体験を通じて自己の人生を省察し、生命の本質について哲学的な問いかけを受けている。この作品は単なる娯楽を超え、観客の内面に深く働きかける変容的な力を持っている。

劇評の分布

作品の分析

新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松]

作品の概要

「新装版 内側の時間」は、テント芝居という形式で展開される実験的な作品で、リアリティから抽象へと移行する構成と無駄のない台詞設計が特徴的です。家族関係や日常生活の細部を描きながら、生命と非生命の境界、価値観の問題など哲学的なテーマにも踏み込んでいます。観客は自分自身の人生を振り返る機会を得る一方、作品の価値観の提示方法には批判的な見方も存在しています。

作品の内容(※AIが作品の劇評を元に推察した内容です。必ずしも実際の劇の内容とは一致しません)

この作品は、浜松から松本への旅を軸に展開する物語と推測されます。日常的な家族関係や結婚生活の描写から始まり、徐々に抽象度を高めていく構成になっているようです。成田明加演じる「玉ねぎ丸かじり」のシーンが印象的な山場となっており、背景装置と「ちゅみ」という要素が舞台空間を特徴づけています。リアリティと抽象の間を行き来しながら、生命の定義や価値観について問いかける哲学的な内容を含んでいると考えられます。「どうしようもない価値に真剣になる大人」というテーマを掲げ、現代社会における価値観の問題を扱っているようですが、その表現方法については賛否両論があるようです。

意見のつながり

意見のクラスターには明確なつながりが見られます。「テント芝居の演出と表現技法」に関する肯定的評価と「抽象的・詩的な表現による感想」は、作品の形式的側面と内容の融合を評価している点で共通しています。一方、「作品のコピーと価値観に対する批判的視点」は、作品が掲げる価値観の表現方法に疑問を呈しており、「個人的な人生の省察と共感」および「生命と非生命の境界に関する哲学的考察」は、作品が観客の内面に与えた影響を示しています。これらは作品の受容における多層性を表しており、同じ作品でも観客によって異なる側面が強調されることを示しています。

良かった点

意見からは、この作品の優れた点として以下が挙げられています。まず、テント芝居という形式を効果的に活用し、リアリティから抽象へと移行する構成の面白さが高く評価されています。特に成田明加の「玉ねぎ丸かじり」の演技は生命力を感じさせる印象的な場面として記憶に残っています。また、全演者による優れたアンサンブルと背景装置の効果的な使用が舞台の雰囲気を適切に保っていたことも評価されています。さらに、観客に自分自身の人生を振り返らせる力があり、日常と非日常の境界を曖昧にすることで深い内省を促す効果があったことも重要な長所です。芝居の余韻が心地よく、人生の悔いさえも肯定的に捉え直す機会を提供したという点も、この作品の強みとして挙げられています。

問題点と解決策

作品への批判点としては、「どうしようもない価値に真剣になる大人」というコピーに対する強い反発が見られます。特に「価値」という言葉の使い方や現代社会における価値観の問題に対する考察が不十分だという指摘があります。演劇作品として言葉に対してより敏感であるべきだという批判は、作品の根本的なコンセプトに関わる重要な問題提起です。また、出演者の姿勢について、「褒められたい」「認められたい」という欲求が見え透いており、批判対象となっている「どうしようもない価値に真剣になる」キャラクターを演じることで自らの価値を高めようとする矛盾を「ズルい」と評価する意見もあります。これらの問題を解決するためには、作品のコンセプトと表現方法の再検討、特に「価値」という概念についてより深い考察を加え、出演者と作品の関係性をより自己批評的に構築することが必要かもしれません。また、観客との対話の機会を設けることで、作品の意図と受け取られ方のギャップについて理解を深めることも有効でしょう。

劇評のまとまり

テント芝居の演出と表現技法

参加者は「新装版 内側の時間」というテント芝居作品について高く評価しています。特に、無駄のない台詞構成と現実から抽象へと移行する構成の面白さを称賛しています。成田明加の「玉ねぎ丸かじり」の演技が印象的な山場として挙げられ、背景装置と「ちゅみ」という要素が舞台の雰囲気を適切に保ち、全演者の優れたアンサンブルが作品の魅力を高めていたと述べられています。

代表的な意見:

  • 「新装版 内側の時間」は、野らぼうが目標としてきたテント芝居を遂に実現した作品。言葉の奔流でありながら無駄のない台詞構成で、リアリティから始まり徐々に抽象度を高める構成は問答無用に面白い。成田明加の玉ねぎ丸かじりの演技は生命力を感じる山場だった。背景装置と自由に動くちゅみの存在が舞台を適温に保ち、全ての演者が素晴らしいアンサンブルを見せていた。

作品のコピーと価値観に対する批判的視点

参加者は、「どうしようもない価値に真剣になる大人」というコピーに対して強い批判を示しています。特に、現代社会における価値観の問題や「価値」という言葉の使い方に対する考察が不十分だと指摘しています。また、出演者の姿勢についても、「褒められたい」「認められたい」という欲求が見え透いており、皮肉にも批判対象となっている「どうしようもない価値に真剣になる」キャラクターを演じることで自らの価値を高めようとする矛盾を「ズルい」と評価しています。

代表的な意見:

  • 「どうしようもない価値に真剣になる大人」というコピーに怒りを感じた。現代社会の無価値の循環や意識の硬直に対する批判。「価値」という言葉自体への考察が足りていないと感じる。演劇をするなら言葉に敏感になるべきだ。出演者は「褒められたい」「認められたい」という欲求が見え、「どうしようもない価値に真剣になる」キャラを獲得して価値を得ようとするのはズルいと思う。

抽象的・詩的な表現による感想

参加者は、演劇と日常生活の関係性について抽象的な見解を示しています。彼らは演劇体験の二面性(「ネバネバするがサラッとしている」)と、繰り返しの中にある変化を強調しています。また、演劇が観客の思考と感情を解放し、自己表現を促進するという考えを表明しています。最終的に、芝居が観客の自立を促す変容的な力を持つという見解を示しています。

代表的な意見:

  • 日常生活と芝居との回廊。ネバネバするがサラッとしている。繰り返しの襞は毎回同じで毎回違う。思考の粒子は自由になり、感性も感情も様々な場所に存在する。喜怒哀楽の楽しみ方は観客自身から溢れ出る。この芝居を観た人々は自立していく。

個人的な人生の省察と共感

参加者は、ある芝居の体験について深い感銘を受けた様子を述べています。浜松から松本への旅を描いたこの作品は、家族関係や結婚、日常生活の細部を走馬灯のように描写し、観客に自分自身の人生を振り返らせる効果があったと評価しています。参加者は芝居の余韻に心地よさを感じ、人生の悔いさえも肯定的に捉え直す機会となったようです。その感動の深さから、この作品を日本全国の人々に見てほしいという強い願望を表明しています。

代表的な意見:

  • 芝居は家から出るところから始まった。浜松から松本までの道中が野らぼうだった。親とのしがらみ、結婚、日常の些細なことが走馬灯のように描かれる。芝居を観ているのか自分の人生を観ているのか。芝居後のため息は心地よく、人生は悔いだらけでも満更でもないと思わせる。こんな凄いものを日本全国民に見せたいと感じた。

生命と非生命の境界に関する哲学的考察

参加者は、観劇体験について述べており、その芝居が「目を閉じることができる劇」であったと表現しています。作品は生命と非生命の境界について深い問いかけを含み、時代の本質的な疑問を反映していたと感じています。参加者は特に、生命の定義について考察し、情報とエネルギーの関係性、そして離れていても相互に影響し合う存在としての生命の可能性について哲学的な見解を示しています。

代表的な意見:

  • この芝居は目を閉じることができる劇だった。生命と非生命について考えさせられる内容で、時代の問いかけを感じた。生命の定義とは何か、情報のエネルギーを受けて動くようになったものが動物であり、遠く離れていても動きに影響し合う存在なのではないか。

クラスター 6

このクラスターには意見がありません。

代表的な意見:

全ての劇評

作品 タイムスタンプ お名前 コメント
新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松] 9/21/2024 8:29:33 のりあん 日常生活と芝居との回廊 ネバネバするがサラッとしてる 繰り返しと繰り返しの襞は毎回同じで毎回違う 荷物は多くなるが少なくなったりする 思考の粒子は自由になる 感性も感情も頭だったりお腹だったり肌だったり時には空にポッカリ浮かんでたりする トンネルにもいるかも 喜怒哀楽の楽しみ方はお客さん自身からはみ出たりしたりする この芝居を観た人々は自立してゆく
新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松] 9/25/2024 8:50:20 原山聡矢 「新装版 内側の時間」(2024.9.22,あがたの森公園)感想  振り返れば、あがたの森での最初の公演「帰り道」(2019)は無言劇であった。巨大人形サミュエルの、現実にはさほどではない距離の移動を見守るうち、神話性を帯びたスケールを感じる静かな祝祭劇であった。  テント芝居は、野らぼうが創設時から掲げてきた目標である。一作ごとににじり寄るように目標に近づき、遂に実現した今作が、位相幾何学よろしく目まぐるしく形を変え、時に脱臼し、時にビシリと踵(きびす)を揃える言葉の奔流であったことは誠に感慨深いが、言葉があろうがなかろうが、のらぼうの芝居に自分は一貫して「詩」を感じてきた。  言葉のごった煮のようで実は無駄のない台詞の向こうに、試みられては捨てられたアイディアの死屍累々が見えるようだった。坂口安吾「風博士」の小説としてのアラを言い立てる深澤豊、ファーマボギーのオフビートな哀愁コメディなど、リアリティ寄りのパートから始まり、徐々にヴォルテージと抽象度を高めていく構成は、例えば「銀輝」(2021)などに感じた「劇の世界観や構造を読み取ろうとする努力」を必要としないフレンドリーなもの。問答無用に面白いのだ。  自分は、舞台上に有機物が現れると緊張を感じる。生きた鶏、牛肉、そして玉ねぎ。成田明加の玉ねぎ一個丸かじり、時にむせ返りながらの演技は迫力があった。「咀嚼・嚥下」は死の直前には失われてしまう人間の根源的行為であり、単に体を張っている以上の生命力を感じるパートで、本作の一つの山場と言って良いだろう。  幾層ものレイヤーが仕掛けられていたが、その全体を包み込むように、芝生広場に吹く柔らかな風の動きを可視化する背景装置(兼登場ゲート)と、どこ吹く風とばかりにノンシャランにフリーランニングするちゅみの存在。この外側と内側の風によって、熱演の舞台がオーバーヒートすることなく適温に保たれていた。他、逐一書かないが、全ての演者が素晴らしいアンサンブルで持ち味とパワーを発揮していたと思う。  改めてテント芝居の実現をお祝いするとともに、今後も地元の劇団としてのらぼうを見守っていける喜びを感じている。 
新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松] 10/15/2024 17:10:26 亀山空 訴えている問題(それが何なのか、そもそも在るのかは置いておいて)が、 前田さんにとってどこまで本当に問題なんだろうかと思った。 だから目を閉じることができる劇だった。 目を離せないものではなかった。  自転車で向かっている間に、たまたま生命と非生命について考えてたので、 その一致にはおおと思って、 今はもうそういう時代に来てるよなと思った。 生命は何か? という問いは、 人間の間で「生命」のイメージがある程度同じで無いと 議論も何も無い問いだ。 言葉は定義よりも前に存在してるし 言葉は意味が分からなくても人間は使うことができます。  自分は生命の定義、自転車の上で見つけたと思って。  生命が生まれるまでは、物質のエネルギーしかなかったんだが 情報のエネルギーを受けて動くようになったモノたちが 動物である。 動物は見る。見る生き物だ。遠く離れていても動きに影響しあう。
新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松] 10/18/2024 21:27:30 タテイシヒロシ 芝居は家から出るところから始まった。 浜松から松本までおよそ4時間。その道中が野らぼうだった。親とのしがらみ。結婚とは何か。麻雀は楽しい。タケノコの里があった。一つ一つの見過ごす何かが、野らぼうの芝居で走馬灯のように走り出す。 芝居を観ているのか、自分の人生を観ているのか。それが内側の時間なのか。 芝居が終わった後のため息は心地いいものだった。 我が人生、悔いだらけだが、それでも満更でもないと思った。  参ったなこりゃ。 こんな凄いものを売らなきゃいけない。 それも売る人数が限定される。 日本全国民の首根っこを捕まえて、テントに引きずってでも見せたいのに。
新装版 内側の時間 [2024_秋_松本/東京/浜松] 11/21/2024 23:36:39 亀山空 二度目の劇評投稿になるのですが どうしようもない価値に真剣になる大人がいる というコピーが流れてきて のらぼうさんの公演を思い出すことになったんですが 怒りが湧いてきた。 どうしようもない価値に真剣になる大人 っていうのは例えばYouTuberだったり、テレビのお笑い芸人だったり そして突き詰めると サラリーマンも今どきは価値を作らない 無価値の循環の果ての 社会や人間の意識の硬直、死のような冷凍 その動きに、ゾンビのように加わることで月給が出るんだ。 どうしようもない価値に真剣になる大人の姿を子どもに見せてほしくない。 価値あることをしてる人が日本に一人でもいるのか、 そのぐらいの時代なんだから。 何をしてるんだよ、と思ってしまった。  「価値」という言葉を使うけど 「価値」という言葉それ自体について考えてみてほしい。 考えてない人の使い方な気がする。  産んでほしいって頼んでないのに生まれてきて 必ず死ぬのが決まっててそれは他者の力がタイミングを決める。  人間は二足歩行になってから 生きてることの価値すらずっと悩んできたんです、何億年も。  子どもに適当な言葉遣いを見せないでほしい。 演劇をするなら言葉にはとにかく敏感にならなきゃ。  そしてどうしようもない価値と言いながら ほとんどの出演者は「褒められたくてたまらない」人に見えました。 「認められなきゃしょうがない」と思ってやってたでしょ。  「どうしようもない価値に真剣になる」キャラを獲得して 価値を得ようというのは すごくズルいです。

劇団野らぼう